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ねこの生活と意見 nekokane.exblog.jp

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きょうも良き日


by neko

紀伊半島は不思議な魅力に満ちている。
山々と海が接し、神話、伝説、信仰、歴史が混とんとして横たわっている。
紀伊半島がどのあたりからなのか、時おり考えることがある。
わたしの住んでいるところから6キロほど南下すれば三重県北勢地域、つまり「伊勢の国」に入る。多度から桑名に入ると「海」を感じる。このあたりから海岸は伊勢湾に沿って南に延びて紀伊半島になっていくのだが、伊勢までは伊勢湾に面していて、海は穏やかだし山も迫っては来ていない。伊勢を越えて海沿いなら志摩半島、山沿いなら多気あたりから空気が変わるのがわかる。「熊野への道」に入るのだ。
同じように西側の空気を想像してみる。和歌山の北に連なる金剛山から加太岬の山脈(あこがれのダイヤモンドトレイル!)までが紀伊半島だろう。すると内陸部はどのあたりまで紀伊半島なのだ?
 吉野川の上流に高見山があり、そこから南に下る尾根と東に延びる尾根がある。そのあたりが紀伊半島の北の端なのだろう。
紀伊半島の聖域への、北の入り口は吉野であり高野口だと思うが、吉野川と櫛田川、宮川が東西に分かれる分水嶺=台高山脈も紀伊半島への入り口だろう。
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  *高見山から東の空を見る。

 高見山から尾鷲まで80キロを、2泊3日で抜けている記録を見て無理だろうと思いながらも計画した。大台ヶ原まで50キロ、これだってかなりの距離である。しかし尾鷲まで行くつもりで歩きだす。そうでないと大台ヶ原までも危うい。

 21日中に登山口まで行こうと、午後家を出て、榛原まで行くがなにを間違ったのか、菟田野からのコミュニティバスが終わっている。迷いもなく菟田野から暗くなったロードを16キロ歩いて登山口まで行くことにする。菟田野19時40分発。
 歩きながら赤坂真理の「コーリング」をオーディオブックで聴く。自傷行為する女、親知らずを抜くことに処置方法に異様な執着、歯科医に対する詮索をする女など、異常な感覚の不安な女性たちを描いた短編集。しかし、こんなものを聴きながら山の中を歩くこと自体、異常なのかもしれない。
 ときおり車が過ぎる。車がスピードを落とさずに過ぎていく方が安心である、わたしを見つけて速度を落としでもされたら、どういうふるまいをしていいのかわからない。月がどこかに出ているのだろう、山の端の雲がぼんやりと明るい。いくつかの人家をとおり過ぎる(こんなところに人が住んでいるんだ)。
 足がくたびれてきた頃、登山口に至る。22時。ここからは小説も音楽も聴かないで歩く。
 山道は階段が続きテントを張るような場所は見当たらない。1時間近く歩いて、やっと斜面が緩くなりこのあたりかと見渡したら目のまえに避難小屋があった。高見杉の避難小屋。そばに「高見杉」が相撲取りの名に負けない堂々たる存在で立っている。
 避難小屋というのは、だれでも少し気味が悪い印象を持つと思う。ヒトの気配が残っているからだ。空き缶やゴミが落ちている。しかしホラーなことを考える暇はない。テントを敷いてその上にシュラフを置いてもぐりこんだ。

 翌朝、5時には起きようと思ったが目が覚めたら6時だった。フリーズドライのパスタを食べて7時に出発。1時間ほどで高見山。峠まで降りるとトイレのある駐車場がある。峠から小さなピークをいくつも越え伊勢辻、馬駆場辻と過ぎ国見山につく。
 遠く明神平の鮮やかなみどり色が見えている。明神平で2人の登山者と行きかう。穂高明神を過ぎるとトレイルは不明瞭になる。ピークへの登りは広い斜面でも適当にピークを登ってく。たまにピー九を巻いてるトレースを見つけることがある。うまくピークの向こうの尾根に出れるときもあれば、往き詰まることもあるので、地形図と地形の判断が要る。ピークから尾根への下りもルートファインディングが難しい。いくつも踏み跡がある(たぶん多くの人が迷ったせいだろう)数十m進んでからGPSで確認して、正しい尾根をさぐる。これがやはり消耗する。
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とにかく今日中に池木屋までと足を前に出す。4時を過ぎた休憩でねころぶ。ねころんで見上げる新緑のまぶしいこと。
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 大地の冷たさが火照ったカラダに気持ちがいい。少し寝たかもしれない。
 起き上がり「池木屋まではどうしても行んだ、12時間なんて何度も歩いたことがあるじゃないか」とカラダに言い聞かせる。
 石灰岩地形のたおやかな山稜。緑色が滴る木々。靴が半分もぐる落ち葉の堆積。それにシャクナゲ。
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日没にあと15分という頃に池木屋の手前の池のほとりにつく。
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 ここでテントを張る。19時。しっかりストレッチをして、カラダをリラックスさせてから寝る。熟睡。
 6時発。池木屋山からの山稜は木と岩の大峰のような稜線が現れたり、やはり石灰岩地形の穏やかなものになったり変化が出てくる。道らしきものほぼない。
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 なんども迷いながら、GPSに頼って進む。大台辻まではと思うが、昼を過ぎたくらいから大台辻までは行きつけないと思う。
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 大台辻まで、まだ2時間以上はかかるというあたりで日没。大峰に沈む夕日を見ながら、1×2mのようやくテントが張れるスペースを見つける。
 ここから尾鷲まで行けても終電に間に合わないだろう。大台ヶ原から下山を決める。
 寝る前にストレッチをしようにも、そのスペースもなかなか難しい。翌朝スタッフしたシュラフを食事中に斜面から転がしてしまったくらいだ。沢の源頭の岩で止まったので、回収しに降りたが登りなおすのが苦労。気を付けないといけない。
 大台辻までの3時間はずいぶん長く感じた。
 意識して呼吸を整える。それは三回吐いて三回吸うもので、呼吸と歩みが合うときもあるが、呼吸が早いときもある。歩みのテンポより速いほうがなぜか楽になった気分がする。肺の中で血液が酸素を抱え込んで、筋肉に巡り、筋肉に酸素を渡すというイメージをNHKスペシャルで観た血液のままに頭に描く。「まだ1時間しか歩いていないのだ、もう30分くらいふつうに歩くんだぞ」とカラダに言い聞かす。
 大台辻までも道がほぼない。途中大杉谷の源頭の雨量計の近くになってやっと水場の標識を見つけて、これで無事に大台ヶ原までたどり着ける、と気が楽になった。

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 大台辻からはもともと遊歩道があるはずだが、荒れていてかなり危険な箇所もある。荒れていてもほぼ水平道だ。ひろった枝をポール代わりにして最大速力で歩いた。
 12時ドライブウェイ。30分ほどで大台ヶ原に到着した。カレーを食べ、コーヒーを飲んでから、東大台遊歩道をランニング。大蛇嵓を久々に拝んで、中道を使って70分ほどで一周した。脚力は尾鷲までの分は残っていたようだ。
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 ひさびさのロングトレイル。アプローチの16キロ、縦走路の50キロ。東大台遊歩道の6キロ、合わせて72キロほど。尾鷲まで行けなかったので、満足感とかいうものには、少しため息が漏れる。しかし歩けたという自信みたいものはある。

 バスに乗ってまたトレック・タイテニアムを頭にかけ本を聴く。鎌田東二自身の朗読で「天照大神」「古事記」・・・紀伊半島の谷を行くバスの中で聴くにはふさわしい鎌田さんの声であった。








 


# by kanekonekokane | 2019-06-18 22:17 |

 サラマンカホール少年少女合唱団は、6月15日のホール25周年記念の「第九」で東京混声合唱団のメンバー、大人の県民合唱団と共演した。指揮山田和樹、オーケストラは愛知室内オーケストラ。ソリストは小林由佳、圀光ともこ、城宏憲、近野賢一。
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 大人の合唱団の稽古が毎月曜の夜、これに来れる団員しか参加できなかったが21名(オルガンステージにはソプラノとアルトのみ、バスの団員3人は大人に混じって歌ったが歌った)
 毎週土曜の通常練習の後に練習でドイツ語、高い音程をもクリアした。昨年、秋のオペラ「セロ弾きのゴーシェ」に続いて、この体験は子どもたちにとっては本当に大きい。
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 1楽章からオルガンステージにいて、2,3楽章と長い時間じっと黙ってオーケトラを聴いていなければならない。中には半分寝ている子もいるようだ。ティンパニーでドッキとしている。ほぼ全員がぼんやりとした気分になったころ、やっと4楽章、さらにしばらくしてやっと立つ、たぶん目が覚め始める、そして、やっとバリトンソロが歌いだす。
 指揮者は合唱を子どもだけの声から始める、という指示を出していた。果たして・・・。
 泉から透明な水が湧き出す、泉に呼び起された水があふれだすように合唱が満ちてくる。
 あそこはあの声でないとダメのだ、と思う。濁りのない水でなければと。
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 いわば主役であるソリスト4人が、オルガンステージ下手端にいる!まずない「第九」。
「未来はここに見える」と指揮者がわたしたちに投げかけているメッセージにわたしたちは応えていかなければならない。

# by kanekonekokane | 2019-06-16 12:37 | 音楽

 ヴォイスブック(聴く本)は骨伝導のヘッドフォンで聴いている。音漏れの心配をしていたが、わたしのはほとんど漏れないようだ。ちなみに機種はAfter Shokuz TREKZ TITANIUM。口コミによると国産はダメで中国かアメリカがこの手の品は良いとのことだったのでデザインで選んだ。ほぼ満足。 
 ランニングや山登りで小説を聴いていると、エピソードが道の記憶、風景と結びつく。その小説のくだりは風景とは、全く関係もないし連想もできないのだが、頭のどこかになぜか一つになってしばらく引っかかっている。
 『月の満ち欠け』は、海津の田植えの始まった田んぼと実った麦畑、その中を直線的に掘られた中江川を北に走り、蛇行する大江川を南下したので、その風景と絡んでいる。 
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*中江川

 月の満ち欠けのように死んだ者は生まれ変わる。それは不慮の事故で死んだものが、愛する人にもう一度会いたい人がいると起こりうる現象、という。前世を記憶する子どもがこの世にはいるのだ、とも。
 『月の満ち欠け』はそういう物語だ。蘇りの物語は随分とある。小泉八雲「怪談」の中の“お貞のはなし”。ある男が結婚を約束していたお貞と死別する。そのいまわの際に自身の生まれ変わりを予言する。男はその言葉を信じるべきか、どうか迷いながらも独身で過ごし、ある時、旅の宿でお貞にそっくりの女中に出会う。名を聴くと彼女は「貞」と答えて昏倒するが、回復して男と結婚する。
 愛する人を失えば、もう一度会いたい、生まれかわってほしいと願い、せめて物語の世界でそういう現実があってもいいと思うだろう。まして突然の死ならば、言い残しておきたいこと、やり遂げたいことは多くあったに違いない。
 随分前の韓国映画だが「イルマーレ」(イ・ヒョンスン)という作品があった(ハリウッドでもリメイクされた)。時間を超える手紙のやり取りとした二人が愛し合うのだが、男が事故で死ぬ。その新聞記事を彼女が読み、過去の彼に事故現場には行かないで、という手紙を送る。間に合わなかった、だから彼の事故の記事があるのだ、とあきらめた彼女。そこに一人の男がポケットから一通の手紙を出しながら近づき「今から言う私の話を信じてくれますか?」と言って映画は終わる。
 記事の現実と目に前に現れた男の現実とは矛盾するが、過去は書き換えられて彼はここにいるのだ、とわたしたちは信じる、そう信じないと物語は完結できない。
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 『月の満ち欠け』の中で、妻を亡くした男が、家に迷い込んできたオームが何度追い払っても離れないので、妻の名でオームを呼んだら鳥は「そうだ」と答えた。それでオームに妻の名をつけて一緒に暮らした、という話が出てくる。星でもいい、風でもいい、花でも石でもいいのだ。動物ならもっといいし、ましてや人間として生まれ変わってくれるなら・・・。
 もしかしたら、わたしも誰かの生まれ変わりなのかもしれない。だが、その「しるし」は何もない。誰かの生まれかわりだということも忘れて生きているのかもしれない。そうだとしたら、それは悲しいことでもあるが、現実を書き換えなければならない苦しみからは免れられている。
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 『月の満ち欠け』の「正木瑠璃」は三度生まれかわる。彼女は27歳で事故で死に「小山内瑠璃」としてよみがえり、18歳で前世「正木瑠璃」の不倫の恋人だった三角哲彦(あきひこ)に会いに行く途中で交通事故で死に「小沼希美」として生まれる。希美の母は妊娠中、おなかの子に「瑠璃という名にして」といわれたという・・・。
 希美は、7歳のとき、かつての夫だった正木竜之介に近づく。正木竜之介は、小沼希美がかつての妻「瑠璃」の生まれかわり知り混乱と怒りの中で、不倫の恋人であった三角哲彦に二人で会いに行くことになる。その途中で事故で死ぬ。そして小山内瑠璃の小学校時代の友人緑坂ゆいの娘「緑坂瑠璃」として生まれ変わる。
 緑坂瑠璃は、すべてを明かしてから小山内にこう告げる「生まれ変わりはあたしだけとは限らないよ」。
 小山内瑠瑠の父は、娘と同時に妻もなくしていて、今は新谷清美と交際をしているのだが、清美にはみずきという娘がいる。実は清美は妊娠中におなかの中の子から「梢という名前にして」といわれたのだが、中の一字だけは同じのみずきとした。小山内の死んだ妻の名は「梢」という名前だったのである。

 ここに登場してくる女性はみな「しるし」を感じ、「しるし」を示す。男たちは簡単に気付かない。「しるし」を示し、感じたが故に小学生の少女が中年になった男への恋路を貫いていく。こう書くと執念深いと思われるが、佐藤正午の物語の結末は、大きな不安を抱えながら、なお良かったと思えるのは、死者たちの思いのたけをいとおしく思うからだろう。
 
 大江川を南に下ると川が大きく膨らみ池のようになり釣り堀になっている。そのあたりから自宅のほうへ西北に向かって向きを変えて走る。輪中の家々の横を風に向かって走りながら、小説の最後を聴き終える。

 7歳の緑坂瑠璃が、50歳になる三角哲彦と、30年という時間を超えて再会を果たすところでこの小説は終わる。
 “「瑠璃さん」と彼は言った「ずっと待っていたんだよ」”
 無音になったヘッドフォンをそのままにして揖斐川の橋を走り渡る。

# by kanekonekokane | 2019-06-15 23:38 |

小説を聴く


 きのう「梟通信~ホンの戯言」を読んで、ブログ再開を果たした件を書いたが、「梟通信」で何を読んだので、ということは書かなかった。改めて書くほどのことでもないとも思うが、桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』の感想を探して読んだのだが、梟氏の感想はわたしのそれとは違っていて、百年の孤独』を思わせると言いながらエピソードや語り口調が面白い」というのだ。「比べてみてホントにそう思うの?」とわたしは一人、突っ込みを入れた。
 そのことよりブログそのものに少し惹かれたのだ、雪の降る日に読んだらしく、「こんな日に読むべき小説」とタイトルしていることが、少し好きだと思った。
 それで他の記事を少し読んでみているうち、「9条の挑戦: 非軍事中立戦略のリアリズム」を触れている記事があった。その本の中で、その本の著者伊藤真が、
  軍隊は国民を守るものだと思う楽観
  武力で紛争を解決できると思う楽観
  米国は日本のために戦ってくれると思う楽観・・・
と、右派を皮肉るくだりを引用してから、
「いやはや、改憲して軍備増強を図るってことはとてつもない楽天家じゃないと駄目みたいだ。北が中国がと、枯れ尾花に怯えてアラートを鳴らし子供を机の下に逃げ込ませるようなペシミストには似合わないかもしれない。」と改憲派を皮肉るので、梟氏のことが好きになり、ブログの再開を思い立った、というわけである。
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*わたしの家の西側にある石津御嶽の尾根筋から東に少し降りた般若谷源頭で見つけた祠。トレーニングでこの山にはよくトレイルランで駆け上がるのだが、この祠は知らなかった。訪ね守る人がいるらしく、ワンカップが置かれている。

 ところで赤朽葉家の伝説』は、昨日オーディオブックで聴き終わった。石津御岳へ登り、石津山までトレイルランをしながら聴き、下りの中ほどで聴了(こんな日本語はまだない)。
 昨日書いたように比喩、人物描写はありきたりで、エピソードも人物も脅か「おどかし」みたいな手を使って気を惹くが、中身が詰まってないから脅かされただけになる。
 中身が詰まってない、というのは、細部にこだわるものが薄く、比喩がありきたりで「美しい」とかいう言葉でくくりすぎ、さらに「おどかし」の回収がほぼない、説明はあっても。
 「千里眼」や「山の人」といった不思議な現象も説明する傾向があって、シュールな事柄をこじんまりと解釈の中に収めている。マジカルリアリズムの技法というが、不思議な現象を現実として受け入れるというのがその技法だと思うので、この小説をその技法の枠で語るのは違うと思う。
 推理小説というカテゴリーらしいので、なぞ解きは当然なのかもしれない。それにしても、長編を貫く「空を飛ぶ未来視」のなぞ解きを「あれは飛んでいたのではなく、落下している姿だった」と解かれると、わたしは相当がっかりであった。
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*大江川沿いのカフェ「ガーデンアーツ」。
週に一度はロードを走るようにしている。海津図書館まで5.3キロほど走り本を借りる。今日は新着書の棚をみたら惹かれるタイトルが目に入った「月白青船山」朽木祥という人の児童文学。ちらとページをめくってみると「瑠璃」という文字がある。それで読んでみようと思った。「月の満ち欠け」の登場人物にその名前だったから。
図書館から大江川沿いに3キロ走り、ガーデンアーツに入り本を開く。小一時間読んでから5キロちょっと大江川沿いに走り、田舎道を通り家まで戻る。 

 今日、また一冊小説を聴いた。
 佐藤正午「月の満ち欠け」これはぐいぐいと読めた、じゃない聴けた。面白すぎて聴きながらのランニングがずっと続いてもいいと思えるほど。
 4人の「瑠璃」という女性(女の子)の生まれ変わりの話だが、各章の時系列を逆にしたり、事柄の結びつきも謎めいた描写があり、比喩も面白い。とくに結末の終わり方(二つの結末が待っているのだが)は、安心させながらもその後の出来事への不安も残している。
 「瑠璃」にまつわる夫、恋人、両親の設定、描写のふり幅も大きく、思いがけないものがある。
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*大江川。川、木々、家々、橋、釣り人、ゆっくりと曲がる道。なかなか無いランニングコースである。

# by kanekonekokane | 2019-06-13 22:54 |

ブログ、再々再々開


 けさ「梟通信~ホンの戯言」というブログを偶然見つけて、数ページ読んだら急にブログを再々再々開しようと思い立った。幸い今日は休み、雨模様(梅雨入りした)なので、こういう場合「やってしまう」のが賢いと思って書き始める。
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(花束:先日、次女の結婚を祝うパーティー。もう結婚して4年にもなる子持ちの二人のごく親しい友人たちが野尻湖畔で開いたのだ。左の花はブロッコリー)

 「梟通信」に、なぜ出会ったのか、といえば昨日から「聴き」始めている『赤朽葉家の伝説』(桜庭一樹)のひと様の感想を読んでみたくなり、検索していたら出会った。「聴き」始めている、というのはオーディオブックのこと。これを初めて一ヶ月ほどになるが、ランニング、風呂、料理、洗い物、洗濯干し、ごみ出し、回覧板配達・・・が読書ならぬ「聴書」の時間になる。
 読むと聴くとでは、かなり本に対する印象は変わる(はずだ)。まず読み手の声、読み方で変わるだろうが、なにより「流し聴き」ができる。ななめ読みというものがあるらしいが、それとも違うがそれに近い(と思う)。えっ?と思っても、どんどん進んでいくので、ま、いいか、と流せる。これは「正しい本の接し方」とは思えないが、ななめ読みと同じで(たぶん)耳~脳は、今のくだりが大事か大事でないかを瞬時に判断できると思う(と思わないとダメなのである)。
 
 これまで「オズの魔法使い」から漱石の「門」まで何冊も「聴き流した」。とくに一度読んだことのある小説の読み返しにはとても便利だと今は確信している。
 特に古典は、聴かないとわからない日本語の美しさ、リズムがスーッと体に入ってくる。「伊勢物語」などは数回聞き返した。しかし意味が不明瞭なところは随分あったが、そこは流し聴き。それでも、いやそれでこそシンプルで流れるような文章は損なわれない。
 太宰治、小林多喜二くらいまでは読むより聴いた方がいいのではないかと今では思っている。困るのは名前の漢字が浮かんでこないことである。これは小説を味わう上で欠かせないだろう。大介なのか代介なのか、浅川なのか朝川なのか、悶々としながら聴くことになる。これでは作家が思いを込めて名付けた人物を正確に受け止めないかもしれない(では、翻訳はどーなる?ま、それは置いておこう)。
 それで「赤朽葉家の伝説」も聴いているわけである。
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 この小説は「百年の孤独」(マルケス)を読んで(これはオーディオブックには今のところないので、図書館で借りた)そのつながりで聴くことになった。確かにこの小説は明らかに「百年の孤独」の大枠を使って書かれている。しかし、わたしは面白いと思わなかった。
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 「百年の孤独」の持つ圧倒的なもの(なんなんでしょうね、これって)がない。「赤朽葉家」は神話の世界、古代の渡来人、製鉄技術、さらに戦争前後の歴史や風俗、文化を丹念に織り込んで「百年」を描いているのだが、圧倒的なものが感じられないというは、なんででしょう。こういうつながりで思い出すのが大江健三郎の「燃えあがる緑の木」だろうが、これは「赤朽葉」と同じように歴史の重層、家族、性、人々の怒りと諦念などを描いていても、はるかな圧倒感がある。

 もしかして「赤朽葉」のほうは、人物像が「説明」で書かれているからかもしれない。大江やマルケスはもっと言動を描いて人物像に迫っている、比喩の仕方もこの二人のそれに比べるとありきたりだと思う。特に歴史や文化の「説明」は新聞記事のように門切り型で、例えば主人公のひとり「毛鞠」を「丙午の女」の典型として描くのだが、まるで日本中の同時代の若者がすべて同じようだ、という見方で時代の若者を描いている。やたら長い「あらすじ」を聴いている気がしてくる。とは、いうもののまだ読了(聴了)していないのだ。

 さあて、ビールの空き缶やアマゾンの段ボールなんかをクルマに積んでリサイクルセンターへ持っていこうか、「赤朽葉家の伝説」の続きを聴きながら。

# by kanekonekokane | 2019-06-12 13:32 |