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きょうも良き日


by neko

新宮までピアノコンサートを聴きに行く。わざわざ?そう、わざわざ。新宮の丹鶴ホールを観たかったことと、新宮出身のピアノニスト向井山朋子さんの「KUMANO]と題されたコンサートを聴くためである。
KUMANOというタイトルに何となく惹かれるのは、わたしが熊野が好きだからであり、映像を使ったコンサートのようで名古屋公演に行けなったので、ということもあった。
しかし、新宮まで3時間かけていくのだから、千穂ヶ峰に行ってみようと思ったのである。

速玉大社に詣でる。
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さっそく千穂ヶ峰の登山口へ。民家に入っていく道のような感じで、さっそく迷ったかな?とおもうが、進んでみると古い案内版があった。
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いきなり急な道をのぼり、しばらく行くとひょっこり山頂に出た。
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北側は絶壁で真下に熊野川の河面が見える。東南に流れてきてこの山にぶつかり大きく蛇行してほとんどUターンのように北西に流れを変えてから山を迂回するように再び東南にながれ太平洋に流れ込んでいる。地図を見ていると、千穂ヶ峰という山に地形的な意味がありそうで興味深い。
実際に登ってみると古い火山岩でできているので、河口で噴火した山に川がせき止められ、行き場を失った水はやがて海へとあふれ出たのだろう。
この絶壁の川に対する「意志」みたいなものが感じられて、一層興味深くなる。
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展望台からは河口が見えている。山の周りを蛇のように川が巻き付いているイメージが湧いてくる。
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越路峠へ行かずに神倉神社へ谷筋を降りる。こちらがわは緩やかである。
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神倉神社の参道に出ると新宮高校のサッカー部だと高校生といっしょになって石段を駆け上がった。
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神社から新宮と太平洋が一望できる。
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ご神体のことびき岩に寄り添う神社はやはり美しい。このように彩色は「熊野」を思わせる。紀伊半島の人の色彩感覚は少し特異なのだろう。東南アジアに近い。
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この石段はトレランにとっても手ごわい。だから、というより神域への敬意をもって、少しゆっくりに踏みしめるように降りた。
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神社から街を抜けて速玉大社に戻る、3.8㎞1時間10分。
それから熊野川温泉で汗を流してから、丹鶴ホールへ行く。
新しいホールへは満席。文化への期待が大きさ、この街の文化度も低くはないのだろう。これを維持していってくれることを願うが、ホールもコンサートもわたしには今ひとつだった。ホールはなんだか「密度が低い」感じがした。客の歩く音が妙に大きいので、どうしてかな?と思ったら、客席の形を変化できるシステムで、つまり席の床の下は空洞なのだ。密度が低いのがそのせいとも思えないが、どこか緻密さに欠けている空気がある。ロビーの狭さも「ひろば」としてのホールを否めている感がある。
コンサートは映像の完成度がひくく、ピアノニストの少女期の話を自身がするのだが、発声が悪く何を言っているのかわからないことが致命的だった。

終演、また3時間の道を、熊野川温泉の暖かさの含めて、さまざま感慨を反芻しながら帰宅した。




# by kanekonekokane | 2021-12-01 21:40 | トレイルラン

 どこかのオペラ座の地下に夜な夜なアーティストがたむろするバーがある。
 ビールをのんだり、愚痴を言ったり、そして歌ったり・・・
 舞台では、新型コロナの渦中、マスクをしたままでオペラ「オテロ」の稽古が進んでいる。
「オペラ座地下のアーティストバー」_f0064415_17175843.jpg
 
 コロナ禍のオペラ座の設定だから、登場人物はマスクをして、手消毒をして、ディスタンスをとる、ということにした。ただ歌う時はマスクを外した。バーのマスターのセリフで「ココではマスクはずして歌っていいよ、ワクチンもうったし、抗原検査もしているし」と言っている。

 実際の稽古では、マスクどころか集まることがキケンということでオンラインで歌も台本読み合わせも始まった。なんとか対面の稽古になったが、ひとりづつの稽古でしかできなかった。先月末になり緊急事態宣言解除の方針が確実されるようになり、ホールで密を避けながらマスクをつけて全員での稽古がようやくできたのだ。
 歌う時のマスクを外すことになったが、本番当日のゲネプロではじめてマスクなしで歌った。セリフのときはマスクで、ピアニストと俳優はずっとマスクのままである。
 演劇ではマスクを外して上演しているが、この芝居仕立てのコンサートはあくまでも「コロナ禍」のオペラ座地下のアーティストバーを描いているのである。
 「そこまでしなくてもいいのでは」とか「コンサートくらいは日常から離れたい」という意見もあったが、マスクは衣裳のようにドラマの設定上必要なのである。

 当日のプログラムにわたしは以下のようなコメントを書いた。

 『コロナ時代の舞台』
  コロナは音楽や演劇といった舞台芸術を壊滅させるかもしれない、と思えるほどのインパクトをわたしたちに与えました。
  音楽学の岡田暁生さんは『音楽の危機-《第九》が歌えなくなった日』というショッキングなタイトルの著書でこう語っています。
 「 わたしは『音楽とは、人々が集まって一緒にやる、一緒に聴くものだ』と信じている。しかし考えれば考えるほど、これまで何千年と続いてきたこの人類の風習   
 に、何か決定的な変化が起きかねない状況が訪れているという予感がしている。」(2020/9 中公新書)
  そして、同書でこうも語っています。「 世界中で『生』の音楽が『消えた』という事実、そして音楽がなくなるかもしれないという危機が目の前にあったということ 
 を、伝えていく意味は大きいと思う」と。
  この芝居仕立ての短いコンサートは、オペラを紹介しそのファンを増やしたいという想い、それにオペラに描かれた前時代的なジェンダーというものを、現代の目か 
 ら少し見直しておきたいという想いから書きました。しかし大きな問題は、コロナ禍での稽古も本番もできるのだろうか、ということでした。そうならば劇中の「オペ 
 ラ座」もコロナ禍中に「オテロ」を稽古していたとしたら、と思って台本を書きました。そのことで「危機が目の前にあったということを、伝えていく」ことになるの  
 では、と。
  「芝居というものは、時代の様相をあるがままにくっきりとうつし出す鏡」(シェイクスピア「ハムレット」より)
  このコントでつづったコンサートも、また「鏡」でありたいと思うのです。

 2日からのセリフを入れた稽古ができ、4日間で仕上げた。この集中もコロナのおかげなのかもしれない。
 この芝居仕立てのコンサートでは、俳優の二人が大きな役割を果たした。劇団「芝居屋かいとうらんま」の後藤卓也さんと一ノ瀬つぐみさんが、バーのマスターとママ役で狂言回しに徹してくれた。弁士風な少し滑稽な言い回しとシリアスなアリアとのアンバランスも、計算通りメリハリを作ってくれた。
 出演の歌手たち、ピアニストの河原忠之さん、音楽監修の倉知竜也さんの奮闘にも感謝したい。

# by kanekonekokane | 2021-10-13 18:35 | 音楽

熊野古道をぜんぶ踏破してみようと思った。
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トレイルランをはじめて、それまで興味のなかった何の変哲もないハイキング道や集落の道とか林道までもがおもしろくなってきた。
オルレとかジャランともいうべき道々である。(オルレは済州地方の朝鮮語で細道、ジャランはバリの言葉で道)
以前は車道脇を歩いたり走ったりは好きではなかったが、いまは特に嫌う気分は少なくなった。そういう気分にならないと大辺路はやり通せない。そのくらい舗装路を行かなければならない。

1日目(2/2)
紀伊田辺駅に22時41分到着。大辺路と中辺路の起点である闘鶏神社を参拝。
車の行きかいの多い県道を走り出した。
ザックの後ろにペツルの小さなヘッドライトを赤色点滅させて付けてある。ヘッドライトはバイオライト330。
SOLOMONの25Xにモンベルシュラフ#3、モンベルULツエルト、食糧1.5日分、水1L、エヴァ―ニューアルコールバーナー、ダウンインナージャケット、モンベルパーサライトジャケット、モンベルアクショントレールタイツなど詰めて4.5キロほど。
ウエアは裏起毛のモンベルタイツにショートパンツ、メリノウールTシャツ。
とにかく街を外れて冨田川まで行かないと、ツエルトは張れない。神社とか公園とかも寝場所としてあり得るのだが、やはりアヤシイ。
日にちが過ぎて1時に冨田川にかかる潜水橋についた。まったく眠くなくしばらく川沿いの道を走るが、急に風が出てきた。これ以上走っては翌日にさわると思って、1時半、河原の枯れ草の上にツエルトを張った。夜中強風、気温も低くカラダが冷え込む。

2日目(2/3)
5時前に起きて走りだす。手足が冬山のときの用に冷えてなかなか温まらない。
草堂寺に7時について、ようやく日が登りあたたかくなる。早朝から墓参りや掃除の方が来てあいさつをしてくれる。トイレを使わさせてもらう。
フリーズドライ食を食べようかとも思ったが、安居(あご)の渡しの予約時間に遅れたくないので、プロテインバーやようかんで朝食。
草堂寺からトレイルになり富田坂を快適に越える。安居の渡しに予定通り9時半に到着。かなりがんばった。
ひとりでも500円なので、申し訳ない気分。ふかぶかと船頭さんに頭を下げて船を見送る。
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渡しからいきなり仏坂の急坂で、トボトボと歩いて登る。周参見へは川沿いの車道、長い!
12時、周参見王子神社。折から節分祭で雅楽が聞こえてくる。
境内の隅でお湯を沸かしてフリーズドライを食べる。向こうにオークワがあるので、食糧を少し買う。
馬転坂は生コン工場を横切って入り口に行くのだが、通行できないので迂回を促す掲示がある。まあ、いけないことはないだろうと急で細い階段状の道を上る。こんな道を平安時代の人が登ったのだろうか?と思えるような道で、もしかしたら今は線路があるあたりに道があったのかもしれないと思う。古道は鉄道、車道ができるたびに付け替えられたり、失われたりしてきたはずだ。そうでなくても平安時代から明治まで崩れて変更されたり、新たに楽な、あるいは近道も造成されてきたのに違いない。
馬転坂の後半は低木がまばらに生えた海が見える楽しい道になり、最後に海沿いの国道に出る。
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西浜から山へ入る。分岐点の国道沿いに太い丸太が寝かせてあって、しばらく座って休む。さすがに疲れてきた。長井坂はまだまだ遠い。
山間の車道を3キロ半ほど歩くと長井坂に入る。冬の早い日没が迫ってくる。
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高低差のある山道の低いところに土を積みできるだけ水平道にしてある。段築とか版築というらしい。
見老津が見えてきた。
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急坂を下れば見老津に入ってしまうので、この山の中で寝たほうがいいだろう。18:30。
フリーズドライを食べて、カラダを温める。
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平なところにツエルト張ったのだが、枯葉の上なので夜中にカラダがツエルトから抜け出たりして、やはり寒かった。

3日目(2/4)
少しゆっくり起きて7時出発。見老津を過ぎて、海沿いの国道を行く。
江須崎への入り口で、急に岬まで行きたくなって半島の遊歩道から江須崎へ渡る。
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自然林が残っているが荒れ放題でもある。灯台を見て急いで古道へ戻る。
10時、道の駅すさみで休憩、トイレ。デコポンを一袋買う。これが道中のおやつには格別であった。
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海沿いの道、平見という海岸段丘に開かれた集落を行く。
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平見から平見へ坂を登ったり下りたりする。家々や神社の石積みが美しい。
4時田波のAコープで大休憩。大福やらサンマ寿司を食べる。甘いものを買ってザックに詰め込んで、飛渡谷道に入る。串本に明るいうちにつきたい!しかしもう脚がかなり疲れている。
串本に近い海辺の国道沿いに「尾鷲牛乳」のソフトクリームを食べる。これはうまい!この旅でいちばんの幸福感だった。
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串本なのに尾鷲牧場?まあいいではないか、かなりこだわって牛を育てミルクを販売しているようだ。
日のあるうちに串本に入り、無量寺を参拝。
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街中をコンビニ目指して走る。コンビニより串本温泉の看板が目に留まった。しばらく迷ったが温泉につかることにした。一気に真新しくなった気分で暗い国道を戻り、くじの川沿いに走る。道は高速道の工事の中を行く。とりあえず海岸に出て砂浜で寝ようと走る。
姫を過ぎて大浦の海岸の砂浜でツエルトを張る。強風でバタバタうるさい。コンビニで買ったそぼろ丼を食べる。

4日目(2/5)
6時に起きて走り出す。ちょうど日の出でたくさんの人がカメラを構えている。そんなにいいポイントなの?と海を見ると岩島に穴があいていて、その穴に太陽が入るのだ。
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偶然だったが、これは素敵だ!
古座から海辺を行く道と山を行く道が分かれている。わたしは山を行く道を選んだ。9時、虫食い岩。道の駅はまだ空いてなく。買い物ができないから空腹のまま先を行く。
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こういう色彩感覚がどこか東南アジア風である。
峠の地蔵への急坂の前に最後のデコポンを食べて、急坂を登る。
大辺路行程中、いちばん山らしい山である八郎山。
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はるかに太平洋と紀伊半島の山々が見える。海岸の崖淵をいくより、こういう山道に方が安全で確実だったんだろう。古代の人たちの旅の大変さが身に染みる。
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石組が見事。
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掘割。岩を砕いて割れ門のように道をつけている。
山を越えれば、那智まではたいへんな登りはない。ひたすら走る。那智駅発終電17時25分には十分時間があるが、なんとなく先を急ぐ。那智の街中を走り抜け、いよいよ補陀落山寺への道に入る。残った脚力を出し切るように境内に入る。16時ちょうど。
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補陀落山寺
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熊野三所大神社
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那智駅に隣接の温泉に入り、駅前のレストラン「ボヌール」で急いでビールを飲み、パスタを食べて、電車に乗った。


# by kanekonekokane | 2021-04-07 16:03 | トレイルラン

源氏物語初版千年


どうもブログが続かない。

先だって、ある作家の文章で、読んでいるだけでは作品の消費にすぎない、その作品の感想を書き残さないと、といういうようなことを読んだ。
その時はそうだよね、自分のものにならんよね・・・でも、読んだものがこれからのわたしになに役立つわけでもなく、そういうふうには読んでないし・・・
と思っていた。
それから、少しづつ資本論の勉強を少しづつ進めていくと、作品を消費しているとは作品を商品としてとらえていることだと、思い当たった。
万物が商品になる、資本制は商品という形で現れる・・・資本論のいちばんの基本ではないか。
作家や科学者たちが、膨大な時間を費やして、取材や思考、研究のはてに書いた書物は“本という商品”ではない・・・作品を消費しているだけでは・・・と。
どうにかして、わたしなりに受けとめたい。少なくとも作品を商品としてだけとしか思えないような心持はよくない、と思ったのである。

さてそうであるなら、この間に読んだりみたりふれたり行ったりしたことをふりかえってみることにしよう。
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この何年か「源氏物語」を読んできた。
原文は読めないので、谷崎潤一郎や瀬戸内寂聴の訳を少しかじったが、どうも読み進めない。
それから何年もたって橋本治「窯変源氏物語」を読んだ。すでに源氏を読むことをあきらめかけていたころ、大阪音楽大の図書館の棚に14巻ずらっと並んでいるのをみたら「読もう!」と素直を思ったのだ。当時(2005.6年ころ)、その大学へ非常勤として週一で通っていたので、毎週一冊づつ読めば4,5ケ月もあれば読めるだろうと読み始めた。 週に1巻は少し無理だったが、1年ほどで読めた。
それまで触れてきた「源氏物語」とは全く違う。なんせ光源氏とあだ名された「わたし」が語るのだ。
光クンの衣裳の細かい描写、現代口語で書かれた会話の面白さ、紫ちゃんを誘拐する際の光クンと惟光アニキの会話の面白さ、原作には出てこない庶民たちの会話・・・

さて、ふるい読書の話はもういい。

今になってまた「源氏物語」をもう一度、と思ったのは、サラマンカホールの企画で「源氏物語」を一つの軸にして能と雅楽の企画が立ち上がったからである。もともとはわたしの企画ではなく「これを企画してね」と言われたもの。
能には源氏を題材にした作品がいくつかあるし、雅楽のほうは源氏より前の成立なので「源氏物語」のほうに何度も登場してくる。
それにしても、今また源氏を採り上げる理由というか、言い訳みたいなものがほしいではないか。
提案したものはそこまで考えていなくて、二つの古典の共通キーワードを源氏にしたまでのようだった。
まあ、それでもいいのだが、なんとなくつまらない。それでいろいろと調べていたら菅原孝標のむすめが「更級日記」に源氏全巻を送ってもらって大喜びする記述がある。その年は寛仁2年で、それは西暦1021年なのである。源氏が書かれたのは1008年ころと言われているから13年後、まだ紫式部が存命のころ、全巻そろいが市中に出回っていたということである。「更級日記」以前、いつ頃全巻がそろって箱に入って人から人へと贈り贈られしたのか不明だが、2021年は孝標のむすめが全巻手に取ってから1000年であるという事実にしばらく興奮した。wikiなどで調べてみたら「源氏物語」は1021年初版と明示されているではないか!
ならばこの能と雅楽の二つの公演を「源氏物語初版千年」というキーワードでくくろうということになった。
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そんなわけ「源氏物語」与謝野晶子訳と林望訳をオーディオブックで聴いた。与謝野訳は意外に現代語が多く、短縮していることもあって少し物足らない感じがした。林望訳には期待していたが、現代語や現代的な言い回しが気になった。荻原規子「紫の結び」と改題されたものは巻の順序が変更されているような橋本治以上の「翻案」版で、おもしろく読んだ。大塚ひかり版を読みたかったのだが、雅楽公演が終わるとわたしの源氏熱も少し平温に戻ってしまった。
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いちばん面白かったのは「彩の国さいたま芸術劇場」で9年53回にわたって、全巻を解説、原文抜粋の朗読という企画をすべて収録したものをオーディオブックで聴いた。彩の国で一日分ごとなので、オーディオブックでも53巻の圧巻である。
解説が三田村雅子、原文朗読が幸田弘子というこれ以上ない二人である。
わかりやすく、専門的でもある。なにより幸田さんの読みにひきこまれる。

源氏物語の映画も何編か観た。いちばん面白かったのが堀川とんこう監督、紫式部を吉永小百合、光源氏に天海祐希。冒頭で式部の夫が越前の海岸で異国の海賊に襲われて死ぬ、というもの。貴族たちが太刀を振って戦うシーンが平安貴族のイメージを崩してくれる。
源氏物語には戦闘シーンは出てこないが、武家が平安貴族の末端から台頭してくるのだから、勇ましい貴族も多くいただろうことをあらためて思い起こされるシーンだった。
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源氏物語は宇治十帖がいちばん面白い。
なさけない青年と自立できない娘を辛らつな目で描写し、その家族たちも、実は浮舟を救った僧でさえ、愛情に欠けているとしか思えない。
現代小説家のように同時代を冷徹に見つめ、現代小説家のように、どうしたら良いのかは示さず、結末めいた文章を使わずに物語は終わる。源氏物語の終わり方は「物語」ではなく、「小説」と言えるかも。
浮舟は、最後の最後で、薫を拒否することで自立の兆しを見せる。「自立の兆し」は明石や女三宮でも見出されるが、浮舟は「書く」ことに自分を見つめる景気を見出している。これはそのまま紫式部自身の生き方でもある。

そうだ、源氏物語初版千年の二つの古典企画はどうだったのかも書いておかないといけないのだ。

# by kanekonekokane | 2021-03-31 15:42 |

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1984年公開。だから、36年たつわけである。
小学2年くらいのちひろとまだ保育園に通っていたみずきと妻の4人で、松本市四柱神社の境内にあった会館で観て以来の映画館での観賞で、ちひろと二人で行くことになった。

子どものころ「白蛇伝」を観て大きく心を動かされた。いつくらいの映画だったのか調べたら1958年だから、わたしは9歳だった。
わたしの母も父も映画が好きで、幼いわたしを連れ、母は買い物かごをぶら下げて映画館によく行った。今でも覚えているのが東映時代劇「新伍十番勝負」シリーズ。これはたぶんシリーズ全編観たかもしれない。母は大川橋三が大好きだったのだ、「ハシゾウ」という言葉は何度か母の口から聞いた覚えがある。当然「雪之丞変化」(橋三版)も。父とは「恐怖の報酬」とか観たが、今から思えば名作を観てきたわけである。
「白蛇伝」は、わたしが「みにいきたい」と母に言った記憶がある。父も母も子ども向きの映画でなく、自分の観たいものにわたしを連れて行ったようで、そんなわけで、わたしがそういったのだろう。なぜのちに日本アニメの原点といわれる作品を観たいと思ったのか、その映画がすでに評判だったということをどうして知ったのかはよくわからない。

「ナウシカ」はその後、何度かテレビやビデオを観たが、コロナのおかげで新作映画の公開が遅れたため「一生に一度はジブリを映画館で。」というキャンペーンで映画館で観ることができた。誰でもそうだと思うが「風の谷」の「神話」が描かれた絵を背景にテーマが流れるとき、腕が羽になっている「鳥の人」が見えるところでフォルテになる。グッとくる。
映画で語られているの「腐海」との共生である。
すべてを朽ちさせる「腐海」の底では清潔な水が生まれ、人間によって汚された地球の再生を「腐海」はしているというのだ。
「腐海」の臭気はストレートにコロナウィルスを思い起こさせる。ウィルスというものは生物にとって重要な役割を負っているというのは、現代の科学的知見だが、新型コロナウィルスも動物と共生していたものを人間がとりこんで、抗体反応でウィルスが強化され病原性を持ったのだろう。
そのテーマについてはきょうはこれまでにしよう。
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あらためて観て、トルメキア軍の参謀「クロトワ」が印象的だった。シェイクスピアかと思わせるセリフうだつのあがらねぇ平民出にやっと巡って来た幸運か、それとも破滅の罠か」がいい。
トルメキア辺境軍の皇女クシャナは本国からは疎まれていて、クロトワはその抹殺を命じられて知るのだが(映画ではこういう背景は語られない)、命令に忠実には従わない、というより不誠実な性格の故、本国の指示には従わない。そしてクシャナには距離を置きながらも敵対もしない。彼のこのセリフはその立場を見事に言い当てている。
ほかにもクロトワとクシャナのセリフは古典的な面白さがふんだんにある。クシャナ「わが夫になるものは、もっとおぞましいものを見るだろう」とか・・・ナウシカにも風の谷の剣士ユパにも印象深いセリフはあるが、この敵役のふたりもそれにはかなわない。
“負なるものに真実を見出すというものが宮崎駿どの作品にも感じられるが、敵役のセリフに魅力があるというのは、そういう宮崎の生理ともいうべきものによるのだろう。
映画の終盤、風の谷に王蟲が襲来する。避難する老兵士が「風がとまった」と空を仰ぐ。風が止まるということは世界が滅ぶという前兆である。
このセリフを聴いて、平田オリザの「もう風も吹かない」を思い出した。平田オリザのこの戯曲の題名をナウシカから引用したわけでないだろうが、妙に符合が合う。「もう風も吹かない」には風の話題は出てこない(と思う)、平田自身もこの題名の説明をしていない(と思う)ので、もしかしたら、という勘繰りを入れたくなる。
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風、とは何だろう。「腐海時代」の風は、腐海の臭気を寄せつけない偏西風だが、それが止まれば臭気が近づくことになる。平田オリザの描いた「風の止まった時代」は、貧国になった日本がそれでも海外青年協力隊を派遣しようとしている未来である。
貧国日本の「協力」という皮肉と派遣先での事業も矛盾、養成所で隊員として学ぶ若者たちの矛盾と苦悩が描かれているが「風の止まった時代」の若者が「それでもいわたしは行きたい」とつぶやくラストは、風が止まっても時代が止まったわけでもない、未来が消えたわけでもない、という静かなメッセージを伝えている。
新型コロナの蔓延。
今の世界はすでに「風が止まっている」のだ。



# by kanekonekokane | 2020-07-13 15:32 | 映画