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きょうも良き日


by neko
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カテゴリ:演劇( 4 )



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 この芝居をみてから、ずいぶん時間がたってしまったけど、演劇はゆっくりと時間をかけて咀嚼しないと見つけ出すものがすくない。
芝居がハネてすぐに「どう?」と聞かれても、気になった本質的でない部分が感想に出てきてしまう。先に投稿した「寿歌」の美術で、黒い材料に打ち込んだスクリューの頭が光っていたのはだめだ、とかね。
 時間がたてばそういった気になったことも本質的なこととつながってきて意味が見えてくることもあるが、「寿歌」の美術への気持ちは全く変わらず、あれはダメだと今でも思う。

 「寿歌」に関しては時間がたって、客入れ時から最後まで聞こえていた「爆音」が耳に残っていて、家のそばを通る258号線のトラックの音を聞くたびに「寿歌」を思い出している。それどころか若いころ登った剣岳の小窓の落石の音まで思いださせて、トラックの走行音が日常への「警鐘」に聞こえてしまう。
 演劇の楽しみ方というか、頭の中での残り方というのはそういう形であることが多い。
 あの「爆音」は「寿歌」にとって重要なファクターで、われわれに送られたメッセージの本質的なものだ。そこでは宮崎演出は成功していると思う。

 と書きながら、あうんの会「海につくまで」は、時間がたっても新たに見出すものは少なかった。
 面白くなかったわけではない。2人で10組くらいの人間を演じ分ける面白さ、その短いエピソードに込められた作者の弱者への温かい視線、展開のスピード感、明確な筋道と明確な終末・・・と文句なしではあった。

 ドラマの基軸になっている2人はヤクザで、抗争から逃げ出す場面から始まる。なぜか二人は漫才師に「身をやつし」逃亡を開始。この車の運転の場面が面白いのだが、突然、二人は違う人物になる。末期の病気の夫とその妻、女子社員と不倫関係の上司、倒産した塗装屋夫婦と死んだ父親・・・と5組10人以上の登場させる。
それぞれがさまざまな理由で、それも悲しくもあり、ばかばかしくもあり、ただどれも身につまされるエピソードをもって「最後の地」沖縄の海へ目指す。
そして、青く明るい海を見て生きなおそうと思ったり、あるいは幸せ感に包まれながら死を迎えたりする。いわば予定調和の結末である。ただ元ヤクザの二人を除いてはである。
 元ヤクザの二人のうち「アニキ」は追ってきたヤクザによって殺されてしまう。海をみる前に。
 この必然的な悲劇にコミカルな印象をもたせ、代償として描かれているのが数組の果たされた希みなのであろう。
 どのエピソードも突っ込めばありきたりで、安易な設定だと思うが、ありきたりで安易であった必要があったのだと思う。笑いと幸せを得た人を見たを観れた感動とそれにそぐわない無駄死に。
 因果応報というほどのことではないが、少し心地よいカタストロフィを得れた。

 だから、わたしの中に後々まで残る芝居ではなかったということである。
 だが、芝居の楽しみをシンプルに教えてくれた清涼感に感謝!

 実は小菅さんとは11月にサラマンカホールの企画で、ピアニストデュオコンサートに出演していただく。そのピアニストの二人との観劇。ピアニスト2人は演劇、ましてや小劇場などはその存在自体を初めて知るという。クラシックに生きてきた二人に小劇場の世界を紹介でき、それがこの痛快な作品であったのは良かった
 ちなみにそのコンサートで小菅さんはチェーホフになってもらおうかと考えている。


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by kanekonekokane | 2018-04-19 23:29 | 演劇

SPAC「寿歌」(北村想)


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世界はどうやって終わるのだろう。
すでに始まっているその終わりへの道筋を、戯曲家たちはこれまで随分と予言してきた。

先の投稿で感想を書いた「ミステリヤ・ブッフ」もそういうことなんだろう。
数年まえに観てしばらくパフォーミングアーツを観たなくなるくらい感動したNoismの「ラ・バヤデール」も神の怒りによってすべては崩壊したのではなかったのか。しかも平田オリザによってドラマを書き換えられて崩壊は世界戦争という形で終わる。
「ミステリヤ・ブッフ」の感想で世界の終わりには祝祭的などんちゃん騒ぎがある、と書いたが、「寿歌」もまさにそうである。

世界が崩壊したのち大阪の芸人が放浪の旅をしている、漫才らしいが女性のほうはストリップダンスもするようだ。そこにキリストを思わせる男が加わり奇妙な旅が続けられる。世界の終わりはそのまま世界の始まりで、預言者=救済者と性を売る女と役立たずの男の登場する。キリストとマグダラのマリア、男はたぶん箱船を作ったノアなのだろう。
ヤスオと名のるキリスト風の男は、なんでも複製できる魔術を使うのだが、それ以外には救世主らしい言動はない。
女の持っていたロザリオを街でいくつも複製を作り見物に渡す。見物といっても本当にそこに人がいるのかどうかもわからない。ところが人々の手にしたロザリオに雷が落ちて人々は傷つくのだが、この事件がどういうメタファーなのかよくわからない。神というものは、そういうものだというだけなら、なんか薄っぺらい。
ゲサクという芸人はピストルから発射された弾丸を手でつかむという芸を持っているのだが、女のミスで弾丸が当たって死んでしまう。この事件もどこか薄っぺらい。
男は再び生き返り話がぐるっと一周してきて、また女と旅にでるのだか、ヤスオはエルサレムに行くといって二人と別れる。女の持っていた壊れた櫛をヤスオが直し、それを渡すのだが「櫛をもらったのではいけない、代わりに干し芋を渡してこい」と女にヤスオを追いかけさせる。これもいろいろなことを連想させることだが、しばらく考えてみたいという気分には至らない。
北村想が仕掛けたなぞかけが思いのほかつまらない。演出の宮城聡らしく祝祭の単純さで、なぞを一気に笑い飛ばそうとするのだが。
ヤスオを追いかけないで、再びゲサクと歩き出した女はモヘンジョロに行くという。

エルサレム=平和の街、モヘンジョダロ=死の丘。われわれはそういう場所を求めて、寿歌を口ずさみながら旅をしているのだ、観客のいない虚構の街で命を懸けた芸と性をコミュニケーションの道具にして。
女の名前はキョコウならぬキョウコと名のっていた
芝居の終わりに雪が降ってくる、最前列に座ったときスタッフが「泡のようなものがふりますので」と了解を求めてきた。
このシーンは、世界の終わりは、せめて聖なるものに清められるものであってほしいという北村想の思いなのだろう。

見終わって、不満は残ったけどやはりゆっくりと咀嚼して楽しめるものではあった。
ただ、美術はどうなのかな?8の字に組んだスロープなのだけど、まず脚組に美しさがない、細かいことだがステンレスのスクリューの頭が光っているだけでがっかりする。脚組だけでなく、スロープも舞台一面に置かれた「ゴミ」もどこか素材感が見えていて、あれはどうやってつくったんだろうという、不思議に欠ける。だいたい、なぜ手すりが必要なのだろう。手すりがあるだけで美術が機能に見えてくる。

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by kanekonekokane | 2018-03-30 21:29 | 演劇

ミステリヤ・ブッフ


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書き留めておきたい芝居をずいぶん見てきた。

とりあえず、3月15日まつもと演劇工場の「ミステリヤ・ブッフ」。16,17日が本番だったが、その日がCOROの稽古日なので、演出の加藤さんのはからいでゲネプロを観ることができた。

学生の頃、マヤコフスキーの長編詩「レーニン」を何度も読み返した。叙事に徹したマニフェストともいうべき作品で声に出してよむと独特な高揚感がある。
70年代立命館の学生劇団にいた。ソヴィエトという国には批判をしながらもあこがれに近い感覚で見ていた。
社会主義リアリズムに理論的な根拠を得ようとしながら、一方でロシアアヴァンギャルドに惹かれた。社会主義リアリズムの視点から見るとロシアアヴァンギャルドは単なるやんちゃに見えた。その二つの芸術的な流れの先にブレヒトというものが見えていた、というのが拙い私の学生劇時代である。

さて松本のマヤコフスキーはどうだった?
世界を終わりに箱舟に乗れなかったユニコーンも話、箱舟の中で上流階級と労働者階級の対立、労働者たちに食糧が分配されて天国のような国ができる、みたいな話が、流しの楽団の演奏と狂言回しによって進行される。
この楽団を演じていたヴァイオリンの男性とバスドラムを抱える女性がひどく魅力的だった。
小さな回り舞台、全部を木目を生かした素敵な美術である。回り舞台にはスッポンが空いていて、役者が出てきたりするし、ブレヒト幕が組まれたりする。このアイディアは楽しい。衣裳も「マヤコフスキーぽいね」と根拠なくと思った。
貴族は労働者と衣裳をさっと変えるだけで移行するのだが、これは階級闘争や革命の概念が変化してきたことを表しているのかもしれない。その分は話は難解になる。
さまざまな問題を詰め込んで、ほとんど解決らしきものも得ないままで祝祭的などんちゃん騒ぎが繰り返され、やがて終わる。
革命は、あるいは世界の終わりには、祝祭のどんちゃん騒ぎがあるのだ、ということは納得した。



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by kanekonekokane | 2018-03-29 22:38 | 演劇

4年ほど、寝かせてあったブログを再開。

とくに何かがあったわけではないけど、やはり書き留めておくということは生きていく上で必要なことだ。

とくに何かがあったわけではない、と書いたが、1127.日曜日に、津の第七劇場と台北のShakespeare'sWild Sisters Groupの「罪と罰」、「地下室の手記」をみて、この感想は書き残しておきたい、と思い、じゃ、ブログにでも書いておくか、というわけである。

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 「罪と罰」は、演出の鳴海さんがトークで「骨格しか残ってない仕上がり」と言っていたが、原作の骨格に新しい肉がついて新しい「罪と罰」になっている。
 呑んだくれのマルメラードフが酒場で饒舌にしゃべるくだりで、服を脱ぎ棄てパンツそれも金ピカのビキニ一枚になってしまう。そして、ブタの被りものを被るのである。これだけなら「駄目な男の表し方」くらいで終わるのだが、彼が死んでしまってから、なおもこの姿で最後まで「狂言廻し」として出続ける。時にはラスコーリニコフの内面となり、時にはソーニャの母になったりである。さらに金貸しのおばあさんもブタであり、ラスコーリニコフを追い詰める予審判事も最後はブタの被り物である。これだけなら、傲慢なラスコーリニコフの目に映る「俗悪な者たち」はブタなんだ、となるが金貸しばあさんの妹、そうばあさんといっしょにいただけで殺される、ソーニャの友達のリザヴェータまでもブタなのである。
 そうなるとブタの意味は分からない、ましてや金ピカビキニはもっとわからない。ただ奇妙ないでたちの狂言回しがいるのは劇的な緊張と滑稽な緩みを与えてくれる。
いまだにあれらがなんであったかはわからないが、妙にリアルなブタの被り物がふと今でも思い浮かぶ。
 あれはなんだったんだろう・・・
 
 それぞれのカンパニーは、一人づつ女優を交換している。「罪と罰」のソーニャは台湾の女優が演じた。日本語のセリフに中国語で答える、という風である。これまでもそういうのはあったから、びっくりはしなかったのだが、「地下室の手記」で台湾俳優に混じった日本女優の使い方は面白かった。
 
 「地下室の手記」は、原作の一人語りをそのまま群読のカタチで演じるのだが、中国語のセリフの中にポツンと日本語の単語をいれたり、その逆だったり、同時に中国語と日本語のセリフを言ったり、日本の女優が中国語でセリフを言ったり、その逆だったり、脈絡なく英語になったり。つまりはセリフの内容を頭で追うことを少し拒否される。
 さらに字幕の書体、大きさ、色、縦書き横書きと変化して短い中国語を日本語に訳すと長くなるので字幕のカットが短いこともあって、字幕を読むのも拒否される。
 「頭で理解するな!」「コトバを信じるな」ということなんだろう。さらに衣裳を人形劇のように使ったり、振付のついた動きだったりで原作を短縮しただけともいえるが、演劇として十分に楽しめた。
 「地下室の手記」の何か新たなものを見出すことより、多言語演劇の面白さを十分に演出してみせ、セリフや字幕で何かを得ようと思う小賢しい観客に、演劇的な楽しみ方を教えてくれるものになっていた。
 特筆すべきは台湾の俳優たちの魅力的な声と美しい動きである。久々「俳優」というつややかなものを感じ取れた俳優群であった。
 もう一つ、こんなプロジェクトを三重県文化会館と台湾の劇団が成し遂げたのは素晴らしいことだと思う、3年継続らしいから来年が今から楽しみである。

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by kanekonekokane | 2016-12-03 11:26 | 演劇