池澤夏樹「やがてヒトに与えられた時が満ちて」を読んだ。
地球が住めなくなる「グレート・ハザード」がおこる前に宇宙空間に脱出した30万人が暮らす植民地の話。
そこでは「CPUネットワーク」が生活を決定している。CPUは威圧的な態度ではなく人間と穏やかに対話し、質問にも答えてくれる。そこでは過去への好奇心が強いことを「追憶主義」といって憚れているようだが弾圧はされていない。
ティーダ研究会というものに出入りしたりして、私<ザンジバル>は旧時代への関心が強い。そこで「影」というものがあると知ったりする。つまり植民地には影がないのだ。すべて人工的な間接光で明るさを保っている。
ヤウンデと恋をする。しかしCPUが私になにか試験をしているようだ。ある日CPUから彼女とは会わないようにと言われる。わたしは素直に従う。
私の感覚や感情自体がすでにCPUネットワークに支配されているかもしれないと思える。ふと気づくと指先が金属的な光を帯び、次第にカラダが金属化している。
どうもそれはCPUによる私への試験だったようで、やがて星船に乗せられてどこかへ旅立つ。彼女とも別れて。
星船には、ヒトの文明史の記録が一揃い乗っている。宇宙のどこかにいる誰かにヒトを説明しなければならない、という目的のようだ。そのためにわたしが星船に乗せられている。わたしはすでに「ヒト全員」になった、とわかる。わたし一人にヒトが集約されていると。そして、どこかへ行きついて私は「全員」に分かれるだろうと思う。
こんにゃく座「ロはロボットのロ」を名古屋芸術創造センターへ観にいく。台本と演出は鄭義信。 作曲は萩京子。
テトはパンの種を口に入れるとパンを作るという「魔法」の力を持っている。魔女の娘が女王である王国に修理する博士はいるのだが、王国はロボットを壊してきた。だから博士はもうロボットを作らないし直さないという。魔女とロボットは相性が決定的にあわないようだ。
テトはヒトの気持ちを持っている。そしてヒトの女の子「ココ」と恋までする。しかし彼の故障は致命的でもう治らないと博士にいわれる。ココは必死にテトを助けて
くれと迫り、結局、博士は治らない瀕死のロボットを直してしまう。
テトはどうしてヒトの気持ちになれたのだろう。テトだけでなく仲間のパン作りロボットもみなどうも感情があるようだ。だから、こわれたら病気を治すように修理を願う。ロボットが死を恐れる?
死というものを恐れるというのは、感情の最も基本をなすものだ。もし死へのおそれがなければ感情というものは発生しないかもしれない。ロボットが感情を持ったのは死ぬからかもしれない。
しかしテトは生き返る。もしかしてやはりロボットには死はないのかも。
回復したテトはココとどういう暮らしをするのだろう?
素直に「幸せでしょう」とは思えない。
ヒトとは「人の感情のこと」なのだろうか?ならばテトもヒトだ。
CPUによってヒトの全権を担って星間を行くザンジバルは、次第に感情をなくしていくようだ。というかすでに植民地の住民は激することもなく、好奇心も淡いのだ。
金属化していくザンジバルのカラダにかすかに宿るヒトの感情。金属のカラダに豊かな感情を持つテト。
ハラリの「ホモ・デウス」の中に「ヒトもアルゴリズムにすぎない」という意味の記述がある。シリコンや金属のアルゴリズムかたんぱく質やカルシウムのアルゴリズムかのちがいだけだ、と。そうならば、ザンジバルもテトも同類である。
ヒトとロボットのアルゴリズムは確かに違う。しかしテトは感情を持つくらいアルゴリズムを進化させた。ザンジバルはたぶん何万光年を生きていくために感情をつかさどるアルゴリズムを退化させた。
ザンジバルとテトが同じアルゴリズムの持ち主だと互いに気づく遥かな遠い未来があるのかもしれない。