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きょうも良き日


by neko

SPAC「寿歌」(北村想)


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世界はどうやって終わるのだろう。
すでに始まっているその終わりへの道筋を、戯曲家たちはこれまで随分と予言してきた。

先の投稿で感想を書いた「ミステリヤ・ブッフ」もそういうことなんだろう。
数年まえに観てしばらくパフォーミングアーツを観たなくなるくらい感動したNoismの「ラ・バヤデール」も神の怒りによってすべては崩壊したのではなかったのか。しかも平田オリザによってドラマを書き換えられて崩壊は世界戦争という形で終わる。
「ミステリヤ・ブッフ」の感想で世界の終わりには祝祭的などんちゃん騒ぎがある、と書いたが、「寿歌」もまさにそうである。

世界が崩壊したのち大阪の芸人が放浪の旅をしている、漫才師らしいが女性のほうはストリップダンスもするようだ。そこにキリストを思わせる男が加わり奇妙な旅が続けられる。世界の終わりはそのまま世界の始まりで、預言者=救済者と性を売る女と役立たずの男の登場する。キリストとマグダラのマリア、男はたぶん箱船を作ったノアなのだろう。
ヤスオと名のるキリスト風の男は、なんでも複製できる魔術を使うのだが、それ以外には救世主らしい言動はない。
女の持っていたロザリオを街でいくつも複製を作り見物に渡す。見物といっても本当にそこに人がいるのかどうかもわからない。ところが人々の手にしたロザリオに雷が落ちて人々は傷つくのだが、この事件がどういうメタファーなのかよくわからない。神というものは、そういうものだというだけなら、なんか薄っぺらい。
ゲサクという芸人はピストルから発射された弾丸を手でつかむという芸を持っているのだが、女のミスで弾丸が当たって死んでしまう。この事件もどこか薄っぺらい。
男は再び生き返り話がぐるっと一周してきて、また女と旅にでるのだか、ヤスオはエルサレムに行くといって二人と別れる。女の持っていた壊れた櫛をヤスオが直し、それを渡すのだが「櫛をもらったのではいけない、代わりに干し芋を渡してこい」と女にヤスオを追いかけさせる。これもいろいろなことを連想させることだが、しばらく考えてみたいという気分には至らない。
北村想が仕掛けたなぞかけが思いのほかつまらない。演出の宮城聡らしく祝祭の単純さで、なぞを一気に笑い飛ばそうとするのだが。
ヤスオを追いかけないで、再びゲサクと歩き出した女はモヘンジョロに行くという。

エルサレム=平和の街、モヘンジョダロ=死の丘。われわれはそういう場所を求めて、寿歌を口ずさみながら旅をしているのだ、観客のいない虚構の街で命を懸けた芸と性をコミュニケーションの道具にして。
女の名前はキョコウならぬキョウコと名のっていた
芝居の終わりに雪が降ってくる、最前列に座ったときスタッフが「泡のようなものがふりますので」と了解を求めてきた。
このシーンは、世界の終わりは、せめて聖なるものに清められるものであってほしいという北村想の思いなのだろう。

見終わって、不満は残ったけど、ゆっくりと咀嚼して楽しめるものではあった。
ただ、美術はどうなのかな?8の字に組んだスロープなのだけど、まず脚組に美しさがない、細かいことだがステンレスのスクリューの頭が光っているだけでがっかりする。脚組だけでなく、スロープも舞台一面に置かれた「ゴミ」もどこか素材感が見えていて、あれはどうやってつくったんだろうという、不思議に欠ける。だいたい、なぜ手すりが必要なのだろう。手すりがあるだけで美術が「機能」に見えてくる。

by kanekonekokane | 2018-03-30 21:29 | 演劇