利用できる車を動員して200人以上が避難。最後の車では津波の轟音が後ろから聞こえていたとか。校長年生は迎えに来るかもしれない父兄に対応するため最後まで残り、翌朝、校舎の屋根から自衛隊のヘリで救出された。
どんな気持ちで積もった泥を洗ったことだろう。全員助かったといえども、家族には犠牲者が出ただろう。
学校の周りは原野のように何も残っていない。何も。
この花の向こうに浜が見えているが、夏草の間から家々の基礎だけが垣間見えていた。
ボランティアに行ったのは、誰かのためというより、自分のためだったかもしれない。
「わたしはあの時、何をしたのだろう」これは阪神の震災のときに抱いた気分だった。わたしの実家は神戸市東灘区だ。翌日に駆け付けたが今から思えば、もっといろんなことができた、、、
3.11から何か後ろめたい気分で過ごしてきた。どちらかというと、その気分を晴らすためのボランティアだったかもしれない。
この目で被災地を視る、被災者と言葉を交わす、この手で泥を掻き出す、、、、少しづつでもオレでも何かができるという気持ちになってくる。
その後、コンサートホールで働く私には「音楽、音楽ホールは何のためにあるのか」という大きな問いかけが、はっきりと見えてきたことは事実である。