片岡亮太さん(和太鼓奏者、上智大在学中)がNHKの放送に出演した録音をwebで聞いた。
GONNA on web BBSでも書いたが、彼の気持ちが率直に伝わってくる話に感動した。
その番組の中で「ダッシュ」という鍵盤ハーモニカと和太鼓の曲があって、軽快なメロディに聴き入ってしまった。
雅楽風なピアニカと太鼓の導入、それから反転して軽快なリズムになるのだが、何回か聴いてじっくり考えていると、「雅楽風」ということが、どうして疑問にならないのかが疑問になってきた。
仙堂新太郎氏が、ご自分のページのBBSでそのダッシュについて
「鍵盤ハーモニカは笙みたいな響きで和の世界にもなるし、アコーディオン風にポップな感じにもなります」
といっている。
うーむ、GONNA「打ち交わす」の楽曲選びで、四拍子を取り入れたものといった議論の中で、「四拍子をするならいいが、四拍子風はいやだ」といっていたのは、新ちゃん、アンタだろう!
でも、新ちゃんのその気持ちはわたしもわかる。そして、亮太の「ダッシュ」の雅楽風を私も許せるのはなぜだ。
私も「○○風」は好きではない、が、「ダッシュ」を聴いたときは、まったくそういう違和感を持たなかったのだ。BBSでも書いたように「裏切るように軽快」な展開がいいとおもったのだ。
ダッシュの導入は完璧に雅楽のパロディである。(慧さんが聴いたらどういう反応なのか、興味深い。慧さんも「本格派」でパロディのユーモアはわかるがエピゴーネン(追従)は大嫌いという人だから)
パロディなら「○○風」でもいいのかもしれない。
でも、原曲や古典の本質に迫ろうと曲を研究して、それを引用して創作したら「真似事だ、エピゴーネンだ」と馬鹿にされるが、原曲の特徴をうまくつかんで、さらっと引用すれば「おもしろい」ということになるのでは、前者は割が合わない。
本歌取り、というものがある。
菜の花や 月は東に 日は西に(蕪村)
という有名な俳句があるが
東の野に かぎろいの立つ見えて かえり見すれば 月傾きぬ(人麻呂)
の本歌取りである。読者は菜の花の風景に万葉の風景を重ねてみることができるという仕掛けである。いわば引用。
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山(持統天皇)
春鋤(す)きて 夏着にけらし 田植笠(貞伸)
これは引用などというナマやさしいものでなく紛れもないパロディである。
月日は百代の過客にして 行きかふ年もまた旅人なり(芭蕉、奥の細道)
は李白の「天地万物逆旅 光陰百代過客」の模倣であり、もし李白が芭蕉と同時代人なら盗作といわれてもしょうがないものである。
「ダッシュ」の「雅楽風」がどういうものであってもいいのだが、雅楽の悠久たる気分を聞き手に一瞬でも与える、という点では本歌取りといえる。
もちろん、雅楽の世界を共有するとか、雅楽をリスペクトしているとは到底思えないので、「お遊び」だとわかる。
では「お遊び」は「悪ふざけ」とどうちがうのか、、、、難しい!
ともかく、ダッシュが面白いと思ったのは、曲と演奏のよさにあるのだろうし、ユーモアたっぷりの「お遊び精神」にあるのだろう。
それにいいものはいつも、悪いものと紙一重な線上にあるのだ。
きわめて模倣に近いパロディ、悪ふざけになりそうなお遊び、盗作寸前の本歌取り。
モーツアルトの名曲だって寸前が多い。トルコ行進曲などもちょっと間違えればまったくベタなイケテないマーチになる。
その寸前までもっていければOKなのである。つまりダッシュは寸前だったのだ。
ただ、(まだこだわるが)ダッシュの曲中で、もう一度たとえば終わりとかに「お遊び」を持ってきたり、中間に「寸前」入れれば、導入部の「意味」が見えてきたかもしれない。
GONNA on web BBSでも書いたが、彼の気持ちが率直に伝わってくる話に感動した。
その番組の中で「ダッシュ」という鍵盤ハーモニカと和太鼓の曲があって、軽快なメロディに聴き入ってしまった。
雅楽風なピアニカと太鼓の導入、それから反転して軽快なリズムになるのだが、何回か聴いてじっくり考えていると、「雅楽風」ということが、どうして疑問にならないのかが疑問になってきた。
仙堂新太郎氏が、ご自分のページのBBSでそのダッシュについて
「鍵盤ハーモニカは笙みたいな響きで和の世界にもなるし、アコーディオン風にポップな感じにもなります」
といっている。
うーむ、GONNA「打ち交わす」の楽曲選びで、四拍子を取り入れたものといった議論の中で、「四拍子をするならいいが、四拍子風はいやだ」といっていたのは、新ちゃん、アンタだろう!
でも、新ちゃんのその気持ちはわたしもわかる。そして、亮太の「ダッシュ」の雅楽風を私も許せるのはなぜだ。
私も「○○風」は好きではない、が、「ダッシュ」を聴いたときは、まったくそういう違和感を持たなかったのだ。BBSでも書いたように「裏切るように軽快」な展開がいいとおもったのだ。
ダッシュの導入は完璧に雅楽のパロディである。(慧さんが聴いたらどういう反応なのか、興味深い。慧さんも「本格派」でパロディのユーモアはわかるがエピゴーネン(追従)は大嫌いという人だから)
パロディなら「○○風」でもいいのかもしれない。
でも、原曲や古典の本質に迫ろうと曲を研究して、それを引用して創作したら「真似事だ、エピゴーネンだ」と馬鹿にされるが、原曲の特徴をうまくつかんで、さらっと引用すれば「おもしろい」ということになるのでは、前者は割が合わない。
本歌取り、というものがある。
菜の花や 月は東に 日は西に(蕪村)
という有名な俳句があるが
東の野に かぎろいの立つ見えて かえり見すれば 月傾きぬ(人麻呂)
の本歌取りである。読者は菜の花の風景に万葉の風景を重ねてみることができるという仕掛けである。いわば引用。
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山(持統天皇)
春鋤(す)きて 夏着にけらし 田植笠(貞伸)
これは引用などというナマやさしいものでなく紛れもないパロディである。
月日は百代の過客にして 行きかふ年もまた旅人なり(芭蕉、奥の細道)
は李白の「天地万物逆旅 光陰百代過客」の模倣であり、もし李白が芭蕉と同時代人なら盗作といわれてもしょうがないものである。
「ダッシュ」の「雅楽風」がどういうものであってもいいのだが、雅楽の悠久たる気分を聞き手に一瞬でも与える、という点では本歌取りといえる。
もちろん、雅楽の世界を共有するとか、雅楽をリスペクトしているとは到底思えないので、「お遊び」だとわかる。
では「お遊び」は「悪ふざけ」とどうちがうのか、、、、難しい!
ともかく、ダッシュが面白いと思ったのは、曲と演奏のよさにあるのだろうし、ユーモアたっぷりの「お遊び精神」にあるのだろう。
それにいいものはいつも、悪いものと紙一重な線上にあるのだ。
きわめて模倣に近いパロディ、悪ふざけになりそうなお遊び、盗作寸前の本歌取り。
モーツアルトの名曲だって寸前が多い。トルコ行進曲などもちょっと間違えればまったくベタなイケテないマーチになる。
その寸前までもっていければOKなのである。つまりダッシュは寸前だったのだ。
ただ、(まだこだわるが)ダッシュの曲中で、もう一度たとえば終わりとかに「お遊び」を持ってきたり、中間に「寸前」入れれば、導入部の「意味」が見えてきたかもしれない。