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きょうも良き日


by neko

すこやか息子


三重文化会館で「すこやか息子」観た。
劇団「柿喰う客」と公募で参加した全国からの俳優たちと、2週間小ホールで合宿稽古した、という前代未聞の企画。
公開稽古を観たときは何ができるのかさっぱりわからなかったし、正直期待はできなかった。
だいたい、公開稽古のときはカラダと言葉のレッスンで終わり、芝居の稽古はなかったのだ。
GONNAの仕事で文化会館のスタッフに会ったときに伺ったら、じつはまだ台本を渡されていない、ということだった。

で、本番。
エアロビクスの動きに載せてセリフをいう。
物語は「わたし」の位置(ポジション)を家族の中で確かめていく、というだけのもの。
セリフの中身ははじめはオモシロイがだんだんと退屈になっていく。展開に欠けるということかな。
元戻りになるおもしろさはあるのだが、その面白さよりパターンの退屈さがしのいでしまう。
他人との関係までいったのだから、世界とわたしの関係まで問いかけることが必要だろう、と思ってしまう。

リズム、振り付けにセリフを載せるのは、維新派もそうであるし、ラップもそうだ。
維新派は5,7拍子で日本語の生理になっていたが、「さわやか息子」は4拍子。
字余りや、助詞の「は」が外れているのが、新鮮でもある。
また、ことばにヘタなニュアンスを込めない、脳天気な明快さ。
こういう「様式」が発想されたことにびっくりでもあるし、先行する「様式」のように普遍的なものになり得るかどうかが楽しみ。

昨日、授業で狂言のDVDを観たのだが、狂言のセリフにもさほどニュアンスを込めないものだ。
「髭櫓」だったのだが、子役が出てくるのを聞いていて、とくに子役はそうだなと思った。
覚えたセリフを懸命にはっきりとした声でしゃべっている。意味などどうでもいいのだ。
そのことを学生に話した。
「歌のときもそうでしょう?悲しい歌を悲しい声で歌うと、言葉が聞こえなくなる、って先生に言われたことあるでしょう」
悲しい歌を悲しく歌っても、悲しみは伝わらない。ならばいっそ、無感動に脳天気に明快に「わたしは死にます」(「すこやか息子」)と語ってくれた方がいいのだ。

これは、話題とは全く関係のない写真。
すこやか息子_f0064415_1325186.jpg

阪急御影駅の前にある深田池でバッタリとイノシシにであった。
東灘のおばあちゃんのうちに帰る途中。
イノシシに出会うのは珍しいことではない、必ずといっていいくらいおばあちゃんのうちに帰るときには出会う。
でも、こんな至近距離で写真が撮れるとは!
眼底の毛細血管が赤く映し出されて、どこか悲しげな表情になっている。
この後、イノシシはストロボに驚いて、茂みに逃げていった。
by kanekonekokane | 2009-12-01 13:34