芝居がハネてすぐに「どう?」と聞かれても、気になった本質的でない部分が感想に出てきてしまう。先に投稿した「寿歌」の美術で、黒い材料に打ち込んだスクリューの頭が光っていたのはだめだ、とかね。
時間がたてばそういった気になったことも本質的なこととつながってきて意味が見えてくることもあるが、「寿歌」の美術への気持ちは全く変わらず、あれはダメだと今でも思う。
「寿歌」に関しては時間がたって、客入れ時から最後まで聞こえていた「爆音」が耳に残っていて、家のそばを通る258号線のトラックの音を聞くたびに「寿歌」を思い出している。それどころか若いころ登った剣岳の小窓の落石の音まで思いださせて、トラックの走行音が日常への「警鐘」に聞こえてしまう。
演劇の楽しみ方というか、頭の中での残り方というのはそういう形であることが多い。
あの「爆音」は「寿歌」にとって重要なファクターで、われわれに送られたメッセージの本質的なものだ。そこでは宮崎演出は成功していると思う。
と書きながら、あうんの会「海につくまで」は、時間がたっても新たに見出すものは少なかった。
面白くなかったわけではない。2人で10組くらいの人間を演じ分ける面白さ、その短いエピソードに込められた作者の弱者への温かい視線、展開のスピード感、明確な筋道と明確な終末・・・と文句なしではあった。
ドラマの基軸になっている2人はヤクザで、抗争から逃げ出す場面から始まる。なぜか二人は漫才師に「身をやつし」逃亡を開始。この車の運転の場面が面白いのだが、突然、二人は違う人物になる。末期の病気の夫とその妻、女子社員と不倫関係の上司、倒産した塗装屋夫婦と死んだ父親・・・と5組10人以上の登場させる。
それぞれがさまざまな理由で、それも悲しくもあり、ばかばかしくもあり、ただどれも身につまされるエピソードをもって「最後の地」沖縄の海へ目指す。
それぞれがさまざまな理由で、それも悲しくもあり、ばかばかしくもあり、ただどれも身につまされるエピソードをもって「最後の地」沖縄の海へ目指す。
そして、青く明るい海を見て生きなおそうと思ったり、あるいは幸せ感に包まれながら死を迎えたりする。いわば予定調和の結末である。ただ元ヤクザの二人を除いてはである。
元ヤクザの二人のうち「アニキ」は追ってきたヤクザによって殺されてしまう。海をみる前に。
この必然的な悲劇にコミカルな印象をもたせ、代償として描かれているのが数組の果たされた希みなのであろう。
どのエピソードも突っ込めばありきたりで、安易な設定だと思うが、ありきたりで安易であった必要があったのだと思う。笑いと幸せを得た人を見たを観れた感動とそれにそぐわない無駄死に。
因果応報というほどのことではないが、少し心地よいカタストロフィを得れた。
だから、わたしの中に後々まで残る芝居ではなかったということである。
だが、芝居の楽しみをシンプルに教えてくれた清涼感に感謝!
実は小菅さんとは11月にサラマンカホールの企画で、ピアニストデュオコンサートに出演していただく。そのピアニストの二人との観劇。ピアニスト2人は演劇、ましてや小劇場などはその存在自体を初めて知るという。クラシックに生きてきた二人に小劇場の世界を紹介でき、それがこの痛快な作品であったのは良かった。
ちなみにそのコンサートで小菅さんはチェーホフになってもらおうかと考えている。