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きょうも良き日


by neko
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2009年12月


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大学のオペラが新年早々にある。
年末の5日間、集中稽古があった。
演目はモーツアルト「ドンジョバンニ」。

女と見れば、手をだし捨てるジョバンニ。
悪行の果てに、彼が殺した騎士長の亡霊に地獄に引きずり込まれる、という物語。
悪は滅ぶ、という勧善懲悪物語なのだが、それだけではないようだ。
でなければ、200年にわたって、こんなにも上演され拍手をもらえる訳がない。

地獄に堕ちるジョバンニは後悔していない。
むしろ、その運命を受け入れているように見える。
一種、確信犯なのだ。ならば、宗教的な教訓劇とも思えない。
ジョバンニは騎士社会に反抗していることは確かだろう。

橋本治の「窯変源氏物語」に、光の君が「オレは、この世の中が嫌いなんだ」という意味の言葉をはく場面がある。その社会への嫌悪感が、彼の「女あさり」の原動力になっている。
ジョバンニの悪行の原動力も「嫌悪感」かもしれない。騎士道なんかくそ食らえだ、繕った品性などオレがむしり取ってやる、ということだろうか。

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京都の大学へは神戸の東灘の実家から通う。
六甲の中腹にある家から坂道をおりていくと、朝の大阪湾が光っている。

 
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by kanekonekokane | 2009-12-29 23:34

12月8日


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 「紫の にほへる妹(いも)を憎くあらば 人妻ゆえに我(あ)れ恋ひめやも」 
ていう歌があるけど、
 「紫の にほへる芋を旨くあらば さツマいもゆえに我れ喰いめやも」
という感じ。

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この見事な色。
これは「パープルスウィートロード」というなんとも高貴な名前の芋。
かつては沖縄なんかでしか栽培できなかった紫芋は、岐阜くんだりでも、こうしてとれるようになった。

わたしより少し上の世代は、芋が嫌いな人が多いらしい。
せんだって、御前崎でさつまいもをテーマにした朗読劇を書いたときも、そんな話が出た。
戦争の記憶がついているからだと。
「芋で命をつないできたのだが、芋を見ると食欲がおちる、、、」と、

そういえば、今日は12月8日だ。
1941年の今日、日本軍が真珠湾攻撃をして太平洋戦争が始まった日。
それに、ジョンレノンが死んだ日だね。
戦争は終わった~戦争は終わらすことができる、『Happy Xmas(War Is Over)』は、数あるクリスマスソングのなかで一番だと思う。

当時(1971年)、ベトナム戦争はつづいていて、学生だった私は「空想的な歌だ」と結構バカにしていた。
でも平和を「空想」できる力こそ大事なことだ。
いまもアフガニスタンではアメリカは懲りずに戦争をしている。
ベトナムから何も学んでいないアメリカ。
「空想」する力が足らないのだろう。
「戦争は終わった」・・・・戦争はしなければ起こらない、こんな簡単な「空想」がどうしてできないだろう。

沖縄に基地はいらない。
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by kanekonekokane | 2009-12-09 00:26

各務原の金比羅山


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ひさびさに山登り。
400mもない低山の雑木林の尾根道。

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そして、トンネル。
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by kanekonekokane | 2009-12-08 00:02

さんぽ


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冬の陽 振り返たくなる 古轍(ふるわだち)

と、昨日(6日)書いて、どうもこの写真は冬じゃねえな、とおもった。
もちろん12月になってとったんだけど、、、、
それにこの句の破調はよくない。
ので、改作

小春日や 振り返ってみる 古轍
(12月7日)
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by kanekonekokane | 2009-12-06 22:01

すこやか息子


三重文化会館で「すこやか息子」観た。
劇団「柿喰う客」と公募で参加した全国からの俳優たちと、2週間小ホールで合宿稽古した、という前代未聞の企画。
公開稽古を観たときは何ができるのかさっぱりわからなかったし、正直期待はできなかった。
だいたい、公開稽古のときはカラダと言葉のレッスンで終わり、芝居の稽古はなかったのだ。
GONNAの仕事で文化会館のスタッフに会ったときに伺ったら、じつはまだ台本を渡されていない、ということだった。

で、本番。
エアロビクスの動きに載せてセリフをいう。
物語は「わたし」の位置(ポジション)を家族の中で確かめていく、というだけのもの。
セリフの中身ははじめはオモシロイがだんだんと退屈になっていく。展開に欠けるということかな。
元戻りになるおもしろさはあるのだが、その面白さよりパターンの退屈さがしのいでしまう。
他人との関係までいったのだから、世界とわたしの関係まで問いかけることが必要だろう、と思ってしまう。

リズム、振り付けにセリフを載せるのは、維新派もそうであるし、ラップもそうだ。
維新派は5,7拍子で日本語の生理になっていたが、「さわやか息子」は4拍子。
字余りや、助詞の「は」が外れているのが、新鮮でもある。
また、ことばにヘタなニュアンスを込めない、脳天気な明快さ。
こういう「様式」が発想されたことにびっくりでもあるし、先行する「様式」のように普遍的なものになり得るかどうかが楽しみ。

昨日、授業で狂言のDVDを観たのだが、狂言のセリフにもさほどニュアンスを込めないものだ。
「髭櫓」だったのだが、子役が出てくるのを聞いていて、とくに子役はそうだなと思った。
覚えたセリフを懸命にはっきりとした声でしゃべっている。意味などどうでもいいのだ。
そのことを学生に話した。
「歌のときもそうでしょう?悲しい歌を悲しい声で歌うと、言葉が聞こえなくなる、って先生に言われたことあるでしょう」
悲しい歌を悲しく歌っても、悲しみは伝わらない。ならばいっそ、無感動に脳天気に明快に「わたしは死にます」(「すこやか息子」)と語ってくれた方がいいのだ。

これは、話題とは全く関係のない写真。
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阪急御影駅の前にある深田池でバッタリとイノシシにであった。
東灘のおばあちゃんのうちに帰る途中。
イノシシに出会うのは珍しいことではない、必ずといっていいくらいおばあちゃんのうちに帰るときには出会う。
でも、こんな至近距離で写真が撮れるとは!
眼底の毛細血管が赤く映し出されて、どこか悲しげな表情になっている。
この後、イノシシはストロボに驚いて、茂みに逃げていった。
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by kanekonekokane | 2009-12-01 13:34