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きょうも良き日


by neko
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カテゴリ:オペラ( 1 )



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オペラ「魔笛」の冒頭で王子タミーノは大蛇に襲われて気を失う。
そして、たまたま通りかかったパパゲーノに助けられたのだと信じる。
どう見たって、太陽の神殿に拉致された娘を救う勇気と能力には欠けていると思うが、娘の母「夜の女王」はなぜかこの情けない男に娘パミーナの救出を願い出る。
女王には大蛇を一撃に退治できるダーメという3人の女兵士がいるでないか?
おまけに敵対するものの戦闘意欲をなくし、困難をはねのける不思議な力のある「金の笛」=「魔笛」と「銀の鈴」を持っているではないか?
ダーメにこれらを持たせて、パミーナを救いに出させれば、簡単だったのではないか?
女王は目の前でパミーナが拉致されているが、その時、魔笛と鈴はなかったのだろうか?ダーメは留守だったのか?

とまれ、女王は非力ではあるが、誠実で人を疑わない優男が、娘を救うのにふさわしいと直感したのは間違いない。だから助け出した暁には娘をお前にやろうとまで言ったのだ。優しい男を待望していたのは女王自身であり、娘の結婚相手、つまりは自らの後継者にふさわしい人格だと思ったのである。
優しい非力な男が運命を切り開き世界を変えるのは、物語世界ではよくあることである。「小さきものが世界を救う」と「指輪物語」のなかでエルフの姫アルウェンが言ったような気がするし、日本の古代でも大国主命は兄の言いなりになるがままの優しい。弱きもの、小さなもの、兄ではなく弟が物語のホーローになる、という寓話の普遍性、世界性の深いところの意味はさておき、「魔笛」でもこの話型が使われているのだろう。

夜の女王が、なぜ金の笛と銀の鈴を自ら使わないのはなぜなのだろう?オペラ「魔笛」の原作ではパパゲーノとパミーナがモノスタトスが率いる奴隷たちに襲われたとき鈴を鳴らすと奴隷たちが踊りだして、二人は助かるのだが、この時二人は二重唱でこう歌う「勇者が、この鈴、手にすれば 、敵は苦もなく 、逃げていく。でもその鈴がなかったら、 仲良くすることできないよ。友情込めて仲良くすれば、 こころの苦しみ、和らぐよ。もし思いやり無かったら 地上に幸せ、あり得ない」と。
ここに夜の女王が鈴を使えない理由がありそうだ。勇気がないのか、友情込めて仲良くできないのか、のどちらかなのだろう。

先日、サラマンカホールで池山奈都子演出、倉知竜也指揮の「魔笛」をみた(見たというより、私が主催側の制作担当者なので稽古から付き合っていたのだが)。そこ箇所の字幕(池山訳)では確か「よき人が持てば}とされていた気がする。こうなるとさらになぜ夜の女王が銀の鈴を使えなかったのかは明確かもしれない。

しかし、待てよ。夜の女王はよき人ではないとは決まっていない。娘をザラストロに拉致されて苦しみを述べ、助けを求める場面では決して悪人ではない、ただ歌の異様な雰囲気からすると、ヒステリック以上のものを漂わせている。しかし、なお苦しむ母親である。2006年、ケネス・ブラナーの映画「魔笛」では、夜の女王をタミーノは抱いて慰めている。

魔法の笛はもっと不可解である。パミーナはその笛を「わたしの父が古い木から降り出したものだ」と証言する。夜の女王が結婚していたかどうかは不明だが、少なくともパミーナは女王、パミーナの父である男の間に生まれた娘である。猛獣ですら心やわらげ、悪をいさめ、人を平和にする笛をその男が作ったことになる。魔笛が女王の手元にあったのだから、たぶん夫だと考えたほうが自然である。では、その夫とはいったい何者なんだろう。少なくとも銀の鈴の由来から類推すると、彼は勇気がありスピリチャルな力を招来できる人格のもち主に違いない。
娘がさらわれたとき、父親は不在だったのは疑いのない事実だろう。もし一緒だったら笛を吹いて(あるいは鈴を鳴らして)、拉致をあきらめさせただろうから。不在だったというより、女王家の一員でなかったのだ。男は死んだのか、夜の女王と別れたのだろう。

このような男といったんは結ばれた夜の女王を根っからの悪人と決めつけるのは無理がある。スピリチャルな男に惚れた「人を見る目」があるからタミーノに信頼を寄せたばかりか、どう見ても頼りないパパゲーノにも動向を命じたのだ。この女王がザラストロの本質も見抜いていたとすれば、ザラストロこそ悪人であるのかもしれない。
彼は女性蔑視の思想を隠さないし、パミーナを犯そうとするようなモノスタトスに彼女を任せたのも「任命責任」「監督責任」が問われべきである。
パミーナを拉致した理由が「あの女のもとにいたらだめだ」というものだが、これも身勝手なものであろう。
しかし、物語は不思議な展開をする。拉致されてザラストロの家来に暴行されかけ逃げたことをパミーナはザラストロに詫びるのである。
タミーノに至っては、ザラストロの貸した試練を疑問も持たずに受け入れる。
よほどザラストロのオーラが神がかっているとしか思えない。事実オペラの中ではライオンにひかれた乗り物に乗って仰々しく登場する。
没収した鈴と笛はタミーノとパパゲーノに返されるのだが、ここでパミーナの父とはこのザラストロかもしれないという推理が成り立つ。
そうだとするとすべては解決するように思える。
離別した夫婦の間で娘を取り合いをした、と言ってしまっては矮小化しすぎるのだが、そうであるなら「善」であろうとするザラストロの拉致行為もとりあえずは筋が通っているし、見ず知らずの若い恋人の二人に寄せる信頼と愛情も納得できる。
そして、この元夫婦を「善なるもの」と「悪なるもの」だとすると、「魔笛」の世界が急に見えてくるような気がする。
善悪の調和こそが世界なのだ。どこかで「善」「悪」が離れ、対立して世界が不幸になるのだ、と。

オペラの結末は、試練というものを経て何かを勝ち得たタミーノとパミーナ、試練には耐えられないパパゲーナもパパゲーナを得て幸せになり、夜の女王とモノスタトスは地獄に落ちてしまう。
善悪の調和こそが世界なのだ。という割には、勧善懲悪、予定調和ではないか?本当に王子と王女に世界は任せられるのか、二人は仲たがいしないという保証はどこにあるのだろう。子どもをたくさん作るとうたったパパゲーノとパパゲーナの幸せは、この次代の支配者の在り方にゆだねれているのではないか。
もしかしたら、クナーベという幼き者たちは、女王にも信頼され、ザラストロの城でも自由にふるまっている。戦いもせず天使のごとく、ここぞというときに行動する。この者たちこそが世界を救うものなのかもしれない。

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by kanekonekokane | 2016-12-26 20:35 | オペラ