「ゲド戦記」を書いたル・グウィンの新シリーズ「西のはての年代記Ⅰ」の一巻にあたる「ギフト」を読んだ。
ギフトは特別な能力を指していて、父から息子へ、母から娘に伝わるがギフトを持っている血筋とそうでない血筋があり、持っていることが一族の首長の条件であり、土地の支配権をにぎることになる。
オレックは父から、「もどし」のギフトを受け継いでいるはずだ。が、なかなかそれは現れなく、オレックも父もそのことを負担に感じている。
「もどし」というギフトはすべてもとの姿に戻してしまう能力で、父のそれは敵対するものをただの「肉の塊」に戻す、ということで発揮される。つまり殺戮に使える武器なのである。
ある日、突然馬の前にあらわれたマムシを「もどす」ことで、オレックはギフトを発揮するが、オレックには自分がギフトを使ったという自覚がない。父親が使ったのではないか、それをオレックが使ったと言って、自信を持たせようとしているのではないか、と疑う。
やがて、オレックは自覚の無いままギフトを使う「荒ぶるギフト」の持ち主だということで恐れられギフトを封印するために目隠しをされる。
三年の間、暗やみで過ごしている中で、母が亡くなる前日に目隠しをとって母を見るが、母に対して「戻しのギフ」トは起こらなかった、その後、母の残した本を読むときにも、うっかりと犬を見たときも何事も無かった。
三年前の疑惑が再びよみがえってきた。「父がうそをついている。自分にギフトがあると思わせている」という疑惑。
目隠しをとったオレックは、恋人にも家人にも何の被害をもたらすことはなかった。
明るくなったオレックの世界。恋人と結ばれて住み慣れた「高地」を離れ、遠い土地に行くふたりの情景で物語の第一巻は終わる。
ル・グウィンの描いた世界は、現代の家族の寓話である。
医師の父が息子に医師になることを望み、息子もそれに応えようとして、結果的にこころがバラバラになっていく、というのは今の日本でもあることである。
オレックもそういうひとりだ。
父親の期待に押しつぶされそうになり、自分のことを役立たずと責める。
だが、彼には、本を読み朗誦できるという「ギフトではない」能力が母から伝わっていたし、母の生まれた「低地」へ、ともに旅立つ愛する人がいた。
映画になった「ゲド戦記」のことだが、あの映画は原作とずいぶん違ったものになっていたが、現代の家族についての物語、ということでは良い作品になっていた。「ギフト」とのつながりで考えると、あの映画はル・グウィンの深い意図に沿っていたのではないか、とも思えてくる。
ゲド戦記でも語られているが、特別な能力は、それを持つものを深く傷つけることになるのだ。
「自然」に逆らわず、あるがままに豊かな人生を過ごすことがたいせつなのだ。
恋人のグライの持っているギフトは、動物との交信。
それを狩のためにしか使えない母の立場に反発して、狩に行くことを拒否する。そしてギフトというものは本来「癒し」や「浄め」など人のためにあるのではないか、という思いにかられる。
彼女の言い出した「ギフト」の本当の意味が、この物語の後半の大きなテーマになっていくことだろう。
ル・グウィンならではこその、登場人物の心の動きの細やかな描写、異世界の情景の生き生きとした語り口。その物語世界はゲド戦記と並んで傑作に数えられることになるだろう。
ギフトは特別な能力を指していて、父から息子へ、母から娘に伝わるがギフトを持っている血筋とそうでない血筋があり、持っていることが一族の首長の条件であり、土地の支配権をにぎることになる。
オレックは父から、「もどし」のギフトを受け継いでいるはずだ。が、なかなかそれは現れなく、オレックも父もそのことを負担に感じている。
「もどし」というギフトはすべてもとの姿に戻してしまう能力で、父のそれは敵対するものをただの「肉の塊」に戻す、ということで発揮される。つまり殺戮に使える武器なのである。
ある日、突然馬の前にあらわれたマムシを「もどす」ことで、オレックはギフトを発揮するが、オレックには自分がギフトを使ったという自覚がない。父親が使ったのではないか、それをオレックが使ったと言って、自信を持たせようとしているのではないか、と疑う。
やがて、オレックは自覚の無いままギフトを使う「荒ぶるギフト」の持ち主だということで恐れられギフトを封印するために目隠しをされる。
三年の間、暗やみで過ごしている中で、母が亡くなる前日に目隠しをとって母を見るが、母に対して「戻しのギフ」トは起こらなかった、その後、母の残した本を読むときにも、うっかりと犬を見たときも何事も無かった。
三年前の疑惑が再びよみがえってきた。「父がうそをついている。自分にギフトがあると思わせている」という疑惑。
目隠しをとったオレックは、恋人にも家人にも何の被害をもたらすことはなかった。
明るくなったオレックの世界。恋人と結ばれて住み慣れた「高地」を離れ、遠い土地に行くふたりの情景で物語の第一巻は終わる。
ル・グウィンの描いた世界は、現代の家族の寓話である。
医師の父が息子に医師になることを望み、息子もそれに応えようとして、結果的にこころがバラバラになっていく、というのは今の日本でもあることである。
オレックもそういうひとりだ。
父親の期待に押しつぶされそうになり、自分のことを役立たずと責める。
だが、彼には、本を読み朗誦できるという「ギフトではない」能力が母から伝わっていたし、母の生まれた「低地」へ、ともに旅立つ愛する人がいた。
映画になった「ゲド戦記」のことだが、あの映画は原作とずいぶん違ったものになっていたが、現代の家族についての物語、ということでは良い作品になっていた。「ギフト」とのつながりで考えると、あの映画はル・グウィンの深い意図に沿っていたのではないか、とも思えてくる。
ゲド戦記でも語られているが、特別な能力は、それを持つものを深く傷つけることになるのだ。
「自然」に逆らわず、あるがままに豊かな人生を過ごすことがたいせつなのだ。
恋人のグライの持っているギフトは、動物との交信。
それを狩のためにしか使えない母の立場に反発して、狩に行くことを拒否する。そしてギフトというものは本来「癒し」や「浄め」など人のためにあるのではないか、という思いにかられる。
彼女の言い出した「ギフト」の本当の意味が、この物語の後半の大きなテーマになっていくことだろう。
ル・グウィンならではこその、登場人物の心の動きの細やかな描写、異世界の情景の生き生きとした語り口。その物語世界はゲド戦記と並んで傑作に数えられることになるだろう。